太平洋戦争のときインドネシアを占領した日本の軍政当局は、「民心を把握」するための住民に対する宣伝活動、当時の言葉で言う「宣撫工作」を重視した。武力戦だけでなく思想戦が重要だという認識のもとに、軍政監部(占領地軍政の政府に当たる)のなかにとくに宣伝部を設けて、住民に対するさまざまな宣伝活動を展開した。そこには日本から宣伝活動のプロだけでなく、芸術・芸能・文化のさまざまな分野にわたる多数の人材が動員された。たとえば作家では武田麟太郎、阿部知二、富沢有為男、北原武夫といったぐあいに名の知れた「文化人」が多数含まれていた。
宣伝活動には新聞、パンフレット、写真、放送、展覧会、演説、演劇、伝統芸能、紙芝居、映画、音楽などさまざまなメディアが利用された。なかでも視聴覚メディァを積極的に活用したという特徴がある。とりわけ学歴のない農民大衆に対する宣伝手段として映画、伝統芸能、紙芝居、音楽が重要視され、映写技師、音楽家、紙芝居要員、役者などからなる移動宣伝隊が村から村へと巡回した。これらの様々な興行のなかに軍政当局のメッセージが埋め込まれていた。たとえ政治色の強い、露骨に動員や徴発のためであっても、娯楽に飢えた村人から熱狂的な歓迎を受けたという。
映画の分野にも優れたスタッフが日本から動員されたが、当時のジャカルタには日本よりはるかに高水準の設備を備えたスタジオがあり、彼らを驚かせた。そこでは軍政当局の方針によっておもにニュース映画と「文化映画」が作られた。ニュース映画は1本10分程度の長さで、『ジャワ・バル(新しいジャワ)』『ジャワ・ニュース』『南方報道』などと名前を変えて占領初期から日本敗戦直後まで約70本制作された。「文化映画」はそのときどきに軍政当局に指示されたテーマによるもので、教育、宣伝の色彩のつよい10〜20分ほどの短編映画である。50本以上制作されたと推定される。そのほかに劇映画も10本以上制作された。
それらはインドネシアや日本にはほとんど残っていない。他方次のような事情でオランダにかなりの数が残っている。1945年8月日本敗戦後ただちにインドネシア共和国が独立を宣言した。しかし、オランダはインドネシアを再び植民地として支配しようとしたため、4年以上にわたるインドネシア独立戦争が始まった。その混乱の中でオランダは約900本の映画フィルム(1本約10分)を本国に持ち帰った。しかしそれらの正確な入手場所は不明であり、また内容が整理、検討されることもなかったらしく、一連番号を振られただけであった。その後ほとんど忘れられ、やがて分散し行方不明になったものも多い。
このうち1986年の調査時点で約150本の存在を確認できた。ところが映画フィルムは時間の経過の中で物理的に崩壊して使い物にならなくなっていく。オランダでは政府の情報局(Rijksvoorrichtingsdienst)の映画部門が古いフィルムをビデオ化する事業を行っていて、これら日本占領時代のインドネシアの映画も対象になっている。情報局にとくに交渉してビデオ化のすんだもののコピーを入手することができたのであった。