ゼミを探検!

船本弘史ゼミナール

ことばと文化

 先日ある書店に立ち寄ると、「訳あり書セール」と書かれたワゴンにいささか古びた本がぎっしりと並べられていました。掘り出し物はないかと物色していたところ、芳賀綏はがやすし氏の『日本人の表現心理』(中公叢書)という本が良い状態で置かれているのを見つけました。本書を手に取り何気なくページを繰っていると、その中の「日本語ブームに思う」という記事が目に留まりました。ブーム?なるほど今や多くの書店で「日本語コーナー」が店内の一角を占め、ことばに関する書物がところ狭しと並べられています。日本語ブームに乗じてのことなのでしょう。しかし本書が出版されたのは1979年(昭和54年)です。しかも、同記事の初出は1978年10月26日付のサンケイ新聞とありますから、「日本語ブーム」は当時から広く市民権を得ていたと言えるでしょう。もしかしたら、この表現は今から半世紀以上も前からごく普通に使われていたのかもしれません。しかし考えてみれば、一般的にブームというのは何につけ一過性が強い性格のものです。それにもかかわらず、ファッションでも歌謡曲でもなく、どちらかと言えば地味な「ことばの話題」がこれほどまで長い間ブームであり続けているというのは、ちょっとした驚きでもあります。

 さて、学問とはどのような分野も日進月歩であり、私の研究分野である言語学もその例外ではありません。言語学といえば、扱う領域は広範にわたっており,関連領域との接点も多岐にわたります。究極的には,人類の発生とともに受け継がれてきた人知のいとなみであることばの豊かさと創造性を説明しようとする学問です。ことばなしに私たちは自己を認識できるでしょうか。否,「人間-ことば=?」と式をたててみたところで,ことばから逃れることのできない私たちは思考実験すらできないでしょう。ことばは私たちが人間として生きるために不可欠な存在なのです。そのように考えると,ことばを知ることは人間を知ることにつながります。

 一説によれば世界には8千もの言語が存在するとも言われますが、それらすべてに通底することばの本質とは何か。そもそも、人々が互いにわかりあうために使う最強のツールがことばであると言うのなら,ことばは共通であればあるほどよいはずです。しかし現実はそうではない。なぜこれほどまでに多様化する必要があるのでしょうか。などなど,ことばに関する諸現象を科学的に説明することは容易ではありません。今も多くの研究者がこういった問題に取り組み、日々新しい研究成果が発表されています。

 しかし、最新の研究動向を知ろうと学会に足を運んでみると、多くの研究テーマがいわば「古くて新しい問題」であり、多くの研究者によって繰り返し取り上げられていることに気づかされます。例えば「主語とは何か」「係り結びの法則性とその機能」「述語構造の分析法について」「品詞分類の基準」「動詞の活用体系」「意味はどのように記述されるか」「言語習得のメカニズム」「主観と客観を言語はどのように写しとるか」などです。ちなみに、言語研究の歴史を見てみると、古くは紀元前4世紀頃にプラトン(427 – 348 B.C.)が初期の『対話篇』のひとつ、「クラテュロスCratylus」の中で、ロゴスlόgos(≒文)をオノマόnoma(≒名詞)とレーマrhē̂ma(≒動詞)と呼ばれる2つの要素に分解しています。アリストテレス(384 – 322 B.C.)はこれにシュンデスモイsýndesmoi(いわゆる接続詞・冠詞・代名詞類の総称)と呼ぶ要素を加えました。そしてこれら3つの範疇が今でいう品詞論の基礎になりました。以後2千年以上あらゆる言語でこの概念について議論され、今もなお多くの言語学者や哲学者がこの問題に取り組んでいます。このように同じ問題が何度も議論されるというのは、常に最先端の技術や新事実を追い求める自然科学分野では考えにくいことかもしれません。

 しかし、「ブーム」が続くと、そこで繰り返し言われ続けたことがいつしか自明の理であるかのごとく常態化され、ひとつの「見方」が「事実」へとすり替えられてしまうことがあります。私は、これはとても危険なことだと考えています。たとえば次のような問題について考えてみましょう。「名詞」や「主語」などは、日常会話でもごく普通に使われることばですが(たとえば「誰が誰に何をしたか,誤解があってはいけませんので,主語を明確にして言ってくださいね」など)、これらの用語は日本人がブタをいつしか「ブタ」と呼ぶようになったのと同じように扱って差し支えないのでしょうか。

 ある状況を見て感じたことをどう表現すればよいか,私たちはどうやって知るのでしょうか。リンゴ,勉強,喜び,平和・・・。私たちは心に生じるイメージに輪郭線を描き,その内側にあるものに名前を与え,そうでないものと区別することにおいて個々の対象を理解します。そのようにして理解されたものを概念と呼びます。私たちの経験を心の中で概念として認識するためには,社会的な経験が必要になります。個人的な,自己完結的な経験だけではだめなのです。ここでいう社会的な経験とは,他者と交わること,つまり対話と考えてよいでしょう。「夏の暑い日に風鈴の音を聞いて涼を感じる。」これは地球のどこかで自分勝手に言語化できる感性ではありません。私たちが現代の日本社会で経験することに輪郭を与えてくれるのは,他者との関わりの中でことばを交わすという行為が遠い過去から繰り返され,そうした経験から培われてきたものを私たちもまたそのようにして受け継いできたからです。その意味では,ことばは最も広義の経験,つまり五感のはたらきを,いったん他者と共有される概念に照らして,表現する手段と言ってもよいでしょう。日常的に繰り返される言語体験の蓄積。それによって,自分が思い描くことを他者に伝えることもできるようになります。

 もっと身近な例で考えてみましょう。たとえば「ヤバい」。日本社会に暮らす私たちなら(ただし日本人全員とはかぎりません),ある状況に遭遇すると特定の感じ方で反応してしまうということがあります。そこに立ち会った人たちは口々に「ヤバい」と言って分かりあう。それで,「そうか,これがヤバいということか」と理解します。そうして「ヤバい」が表す事柄がひとつの概念として輪郭をもち,私たちの心の一画を占めるようになります。しかし,ひとたび別の言語社会に身を置くと「ヤバい」で表現される概念そのものが存在せず,訳すことさえ難しい場合があるかもしれません。このように,概念形成はことばを介して行われ,その舞台は国や地域など規模の大小はあれど必ず社会であると言えます。

 社会に息づく生活様式や価値観は実にさまざまです。それに応じて形成される概念もさまざま。概念の形成や表現に使用されることば(の能力)も,時代や地域における社会に適するようにさまざまに進化するのが自然でしょう。この「自然にさまざま」ということばのあり方は,ことばはなぜ多様なのかを説明するうえで極めて重要です。

 ここでも具体的に考えてみましょう。H2Oの化学式で表される物質を日本語では「水」と呼ぶし,英語ではwaterと呼びます。言語によって同じものに別の名称をつけているわけです。そうしてよいのです。しかしまったく同じというわけではありません。日本語では一定の温度を境に,それより低ければ「水」,高ければ「湯」と呼んで,ふたつの概念に切り分けて理解します。もしかすると,湯につかる風呂文化や茶の湯を嗜む習慣なども水と湯を切り離すことに一役買っていたのかもしれません。一方英語では日本語と同じような切り分けは行わず,冷たくても熱くても液体であるかぎりwater(boiled/hot/tepid/cold/ice-cold…) waterです。どちらが正しいかとか合理的かではなく,それぞれの社会で営まれる生活様式の中で自然とそうなったのでしょう。

 ことばは概念を具体的に表現するための手段です。手段は道具と言い換えることもできます。道具であれば,用途があって,素材があって,姿形がある。これらをことばに置き換えると,用途は意味すること,素材は音声や文字,姿形は構造(文法)であると考えることができます。

 では、発音記号で/e/と/n/と/t/という3つの素材を使って何かことばをつくってみよう。試しにこれらを/e + t + n/とつなぎ合わせると、何か日本語として理解できることばになったでしょうか。なりませんね。では/t + e + n/はどうだろう。「天」「点」「(動物の)テン」。同じ素材を使っても、/etn/はダメで/ten/ならよい。その違いは何だろう。

 まず、ある用途に必要な素材が揃っていたとしても,それらは「ただあればよい」ということではない,ということです。ことばとして意味するように(理解できるように)姿形を整えなければなりません。いまの例だと/t + e + n/のように並ぶ順番が大切だということです。つまり順番とは素材を配置する前後関係のことです。これを「統合的関係」といいます。しかしそれだけではありません。日本語で/ten/と言えば意味をもつ語として理解することができました。このとき,素材の配置に注意したことに留意しておきましょう。配置でいうと,/t/は子音,/e/は母音,/n/は子音だから,この例を見たかぎり日本語では/子音+母音+子音/という統合的関係が可能であり,このそれぞれの位置にいろんな素材を代入すればいろんな語ができる(かもしれない)と一般化できそうです。ではせっかくなのでもう少し/e/と/t/と/n/という3つの素材を使って実験してみましょう。この3素材でできるもうひとつの形,/n + e + t/はどうでしょうか。驚くべきことに,意味するかどうかを考えるまでもなく,/etn/と同様にこの姿形もそもそも日本語としてアウト,ありえないことがわかります。(「ネット」は/netto/なのでちがいます。)なぜなら,多くの人が知っているように,日本語では原則として語の末尾に子音がくることがないからです。/n/「ん」が例外的だったのです(「ん」が例外だとする考え方もある種の規範をもとにした発想であって,それが正しい説明と言いきれるかどうかは分かりません)。一方で,母音(/e/)のまえの子音は/t/だと「手」,/n/だと「根」ができますし,ほかにも/k/「毛」,/s/「背」,/h/「屁」,/m/「目」など,いろんな素材との組み合わせが可能です。統合的関係を/子音+母音/とすれば,母音のまえにくる子音は,具体的な素材として,/t, n, k, s, h, m…/といろんなものがありえます。しかしここでひとつ注意が必要です。母音のまえの位置で実際に生じうる子音はこれら可能なレパートリーの中からどれかひとつしか選べないということです。独りオーケストラはできないのです。/t, n, k, s, h, m…/はそういう選択関係をなしているのです。この関係は「連合的関係」と呼ばれます。

 まとめると,ことばは素材を可能な統合的関係に従ってただ配置するだけでなく,それぞれの位置で連合的関係をなす素材のなかからどれかひとつを選ぶことによって,用途(意味)にあった語や文を生み出すようにできています。ことばが少し立体的に見えてきたと思いませんか。

 さて,/ten/は「天」を表すとしましょう。それは日本語の話です。(細かな発音のちがいには目をつむるとして)同じ姿形の/ten/を英語として聞けば,たまたまten(数字の「十」)を表すことになってしまいます。なんならnetだって英語では立派な単語です。このあたりで疑問がやまほど湧きあがってきたことでしょう(健全なことに)。しかし紙幅の都合上,ここではとりわけ大人を困らせる素朴な疑問をひとつだけ考えてみましょう。どうして天は「テン」って言うの?「タン」じゃダメなの?

 この難問に深い洞察を示し,現代の言語学を切り開いた学者がいました。スイスの言語学者,フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)です。彼によれば,ことばで何らかの対象を言い表すということは、表現内容(意味)と表現形式(姿形)とが必要で,この内容と形式という2者が結びつかないとことばにはならないのですが、重要な点はこのふたつの結びつきは絶対的な関係ではないということです。「頭上の世界」「極楽」のような概念があるとして,それをことばで言い表すために,誰もがいつの時代でも日本語のように/ten/という姿形を使って呼ばなければならないという絶対的な決まりはないのです。ですから、およそ「天」に相当する概念を英語では/hev(ə)n/と言ってよいし,アラビア語ならجَنَّةٍ /janna/と言ってもよいわけです。だから,どうして天は「テン」って言うの?という問いに対する答えは,投げやりにではなく学問的に考え抜いて,「たまたまだよ」です。(ソシュールの深い洞察をここで過剰に矮小化するわけにはいきませんので,意欲のある人は彼の『一般言語学講義』を参照して彼がこの問題についてどのように考え抜いたのかを知ってほしいと思います。)

 さて,概念をどんな姿形にして言い表すかという話をしました。その概念が物であれば,それをことばで言い表すとき,その姿形は物の名前としてふるまいます。そしてそのようにふるまう語の集合を私たちは一般的に「名詞」と呼びます。この「名詞」という用語の扱いは、どのように考えればよいのでしょうか。実は、この問いは言語学ならではの非常にやっかいな問題を孕んでいます。その問題とは、あらゆる学問分野の中で、言語学だけはことばでことばを記述・説明するという、まるで同語反復(トートロジー、たとえば「北は北である」)のようなことをしなければならないということです。しかし、一口にことばとはどのようなものであるかについて考えるといっても、「ことばである」ことと「ことばであることを認識する」こととでは、それぞれのレベルから見える眺望はまったく異なることに気付くでしょう。およそ我々が世界を切り分けて理解する過程から得られる認識の断片は、ことばそのものの姿を写し取ったもので、前者の「ことばである」という側面に関する事がらです。日本語の「水・湯」と英語のwaterを思い出してください。化学式でH2Oとして表される物質を、日本語では温度や状態によって「水[mizu]」「湯[yu]」,さらに固体なら「氷[koori]」に分けて言うことができますが、英語ではwatericeの2通りによって区別されることを見ました。しかし私たちは「水」をはじめ世界のあらゆるものに名前をつけるためだけにことばを使っているのではありません。「水」が別の語彙(例えば「流れる」や「飲む」)とともに使われた場合、この「水」は「流れる」や「飲む」などの語が表す事柄に対して何かの役割を演じることになります。つまり「水」という語が他の語との関係においてどのように機能するかを理解する必要があります。この点についてもう少し踏み込んで述べると、線状的に連なることば(音声や文字の連鎖)を語、句、節などの単位に切り分け、これらの単位に含まれる要素が互いにどう関係し、全体としてどのような意味の伝達に寄与するかを捉えなければならないということです。これは構成関係と呼ばれ、ことばが「ことばであることを認識する」プロセスに含まれます。このように考えてみると、日本語の「水」は「物質、無生物、状態変化、無色、無臭,飲用」などといった素性の集合体からなる範疇の中で扱われ、「流れる」「飲む」といった現象の参与要素として機能する類概念,すなわち名詞のひとつとして扱われることになります。日本語の「水」は「水を飲む」「水をまく」「水に流す」など,どのような命題の構成関係にあっても名詞という範疇の中で他の範疇と一定の構成関係をなすようになっています。このように機能する日本語の「水」という名詞は,主語と呼ぶべき要素と考えてよいのかという疑問にここでようやく至るわけです(あなたの答えは何ですか)。さらに言えば,英語にだってI water the plant every morningのような事例もあることから,これはこれで日本語の「水」とはまったく異なる範疇化が必要なのではないかと思えてくるでしょう。

 この見方を進めていくと、なぜ言語が違えば範疇化の仕方も必要となる概念も違ってくるのかという疑問が出てきます。同じ人間が同じ地球上に住み、(少なくとも身体的には)同じ世界を見ていることは自明であるように思えていたにもかかわらず、実は見る者によって世界は違って見えているのではないか、との疑念を抱くことでしょう。どのような方法であれ、世界を切り分け、ことばを切り分けようとする人間の思考がどこから来るか、そこを突き止めなければこの問いには答えられないと私は考えています。上で示唆したように,私見を述べれば、その動力源は一個体としての人間に内在する力というよりも、他者との交わりから発する文化であると考えています。それはあたかも物質と物質がぶつかり合った時に生まれるエネルギーのように、我々人間も他者との相互作用から意思疎通の必要が生じ、その範囲の中で共通認識が蓄積され社会化されるのです。そこで私はいま、ことばと文化の関係について次のような定義を試みています(少し長いです)。

 人は生まれて間もない頃から常に人為的(つまり社会的)ないし自然発生的な事象に囲まれ、好むと好まざるとによらず、自発的または受動的にそういった環境と影響しあっている。自分から見て周囲はすべて環境であるが,他者から見れば自分の存在もまた環境の一部である。それは自然環境でもあり社会環境でもある。あるいは自然と社会を―対立であれ共存であれ―別個に見立てること自体が,ある種の文明社会の世界観を映し出しているにすぎないのかもしれない。しかし,それが何であれ,相互作用という関係性が実現される場であるという点において,社会は人間にとって決定的に重要である。なぜなら特定の社会(つまり家族、近隣、学校など幾層にも重なって構成される共同体)に身を置くかぎり、その中で蓄積される経験は、他者、事物、その他あらゆる現象を含め、環境と自己を融合させるかぎりにおいて意味をもつからである。有意味な経験とは,分節化され,他者と共有され分かりあえる知識となる。そのあり方には必然的にパタン化された一定の様式があり、我々はその様式に従って世界を認識、すなわち受容する。この様式を形づくっているのは、人間社会に生きるなかで抗いようがないほどに我々の精神の奥底に植え付けられる社会的秩序であり、我々は普通、ごく自然にこの秩序に順応し(または支配され)、そうしていることに、(しばしば無意識に)反応している。この認識のもとに存在する社会秩序は、したがって、個に由来するものではないが同時に個(が自ら置かれた環境の中で必然的な経験を重ねること)の精神性においてのみ存在する。文化とは、このような存在そのものを指す社会認知的構成概念である。人も事物も現象も含めた個別的存在そのものが直接的に文化を構成する「部分」ではないが、それをとおさなければ存在しえないものである。つまり、文化は人がいなければ存在しえないものであると同時に、個としての人の中に封じ込められる「世界」ではない。

 自己と外界との間で繰り返される相互作用から人はあらゆる物事をあらゆる仕方で互いに関係づけることにより有意性を認識し、「意味する」段階に至るわけであるが、一方で個別主体によって行われるこの種の意識は言語共同体に属する他者との意思疎通によって共有しうるものとならなければならない。したがって、人が認識する世界は、所与の社会に参与する中で経験することから生じる「文化の気づき」を通して分節化される。このような文化的様式として個の精神に構築されていく知識の世界は、上で述べた意味で秩序だったシステムであるが,それはたえず流動的でもある。

 ことばはその分節化された意味を排他的な選択および意味素性間の依存関係からなる潜在的な体系として構築する役割を担うと同時に、現実の状況下において意思伝達の主要な手段として使用される。(さらにこの関係性という概念は―ソシュールから言われてきたように―系列的関係と統合的関係とに区別される。)このように、ことばの使用に際し、知的活動はひとつの観念を構成するよう作用するために、「切って結ぶ」という2重奏を演じる。その過程において行われることは、潜在的な選択肢(これを選択体系と呼ぶ)の中から特定の要素を選択することによって一つの切り取られた世界を再構築し「意味する」ことである。そこで、種々の認識の統合によって得られる意識の様式は、組成法の精巧さ(これを予備的意思伝達技巧組成法と呼ぶこととする)により序列化される。ここでいう序列化とは、個人間で行われる相互作用の累積的な経験を通して、一般的に所与の目的を達成するためにコミュニケーションを計画する必要性が生じるところから構築される手法であり、例えばジャンル知識、対話術および修辞法などがここで扱われる。対人間の意思伝達においては、様々な問題解決を目的として相互作用が発生するが、ことばがその手段として重要な役割を果たす場合、テクスト(たとえば小説なら小説全体をひとつのまとまりとする単位)として実体化されるべき意味は、このスキームによってあらかじめ特定の素性を選択するよう決定される。すなわち人間は必然的に世界と関わり他者と関わる。そしてその関わりには必然的にことばが介在することになる。

 無意識のうちの覚醒は、たとえば幼い子供が親を認識する場合を考えてみればわかりやすいでしょう。当然ながら、子供は、親というカテゴリーがすでに他のカテゴリーとの排他的な関係において選択的に指標化する以前から―つまり世界を(大人の)ことばで言い表して理解する以前から―親子特有の相互作用が繰り返され、その対人関係が構築されていきます。その「気づき」の第一歩は、したがって、親ではなく、より原初的に「自分にとって重要な人」であると感じることなのです。

 英国出身の言語学者マイケル・ハリデー(1925 -)は、このような重層的言語モデルをいち早く提唱した言語学者のひとりです。彼によれば、ことばは(1)文化のコンテクスト(=ジャンル)、(2)状況のコンテクスト(=言語使用域)、(3)意味、(4)語彙文法および(5)書記/音韻の5層からなる重層的なモデルによって理解されるとしています(コンテクストはよく脈絡と訳されますが、ここではことば上の前後関係という狭い意味ではなく、我々が住む世界―現実世界も空想世界も含む―全体と考えます)。もう少し詳しく述べてみましょう。我々は日常生活において会話や文章を何気なく使い、理解しています。星座占い、カレーのレシピ、週末に出かける約束など、一つひとつの発話が相応の目的にかなうよう(しばしば無意識に)考えて作られています。ためしにちょっと気難しい人に、簡単なお願いをしてみてはいかがでしょうか。おそらくあなたはかなり意識的に言い方を考えるはずです。そのお願いがことばになるまでの過程は非常に複雑なものですが、あえて簡単に言えば、(1)わかりやすく丁寧に、(2)TPOをわきまえて、(3)誤解を与えないよう、(4)最適な表現を慎重に選び、(5)明瞭に言う、という過程を経ていることが感じとれるのではないでしょうか。もちろんこれは理屈であり、実際にはこれらの過程がひとまとめにして瞬時に起こるのが普通です。いずれにせよ、こうして出てくることばは、全体としてみれば意味的にまとまりのある理解可能なテクストと言えます。当然、もしその過程の中で状況にそぐわない選択をすれば、無意味(ナンセンス)なテクストが作られ、目的が達せられないこともあるでしょう。このように、ハリデーの関心は、単に文法的に間違いとされる文をはじき出すための規則や制約を列挙することではなく、ことばをとりまくコンテクストも含めて、文化的に動機づけられた人間の社会的営みのひとつとしてことばの複雑な仕組みを理解しようとしている点にあります。

 そこで上述の私見を交えていま一度ことばと文化を見つめなおすと、文化は個人の価値観やそれを表出する芸術作品および知的活動の所産のみに帰するものではなく、人,社会および物質としてだけでなく現象としての自然すべてがたえず織りなす相互作用の環(これを私は連環と呼びます)の中にその本質を求めることができるのかもしれません。したがって、これは人が文字どおり「すべて」との関わりの中で行われる他者との関わりによって実現されるものです。そして、その中で決定的に重要な役割を果たすものこそ、ことばなのではないでしょうか。

 人間社会において、ことばをいっさい使うことなく何かを考え、何不自由なく生活することはほぼ不可能でしょう。私たちが人間として生きていくためには、必ず社会の一員にならなければなりません。そしてそこには必ずことばが介在するということです。しかし、私たちは日本語や英語といった個別的な言語を生まれながらに知っているわけではありません。したがって、生きていく上で不可欠なことばは、できるだけ早い段階で身につけなければならないということになります。事実、もの心がつく頃には皆そうなっているのです。そうすると、見る、聞く、歩くといった基本的な認知・運動能力と同じように、ことばを使う能力も「いつのまにか自然とできるようになるもの」だと思えるかもしれません。つまり、ことばの基本的能力は遺伝的に備わっているのだから、生後約1年の赤ちゃんがある日突然立ち上がるのと同じように、言語能力もある時期に達すれば自動的に完成される、と。確かに、どのような言語であれ必ず母語として習得されうるという事実があるかぎり、人間にはことばを習得するための能力が遺伝的に備わっていると考えるのが自然です。

 しかし、このような類推は少し問題があるように思います。上で述べたことばと文化の定義からすると、ことばは我々自身の精神をつくりあげるものであると同時に社会をつくりあげるものでもある、と考えるべきではないでしょうか。そうすると、ことばは本質的に自己と他者の両方に帰属すると言うことができます。面白いのは、我々が「共通の」ことば持ち、それを使ってそれぞれ「別の」自己を確立しているという事実です。同時に、そうであるがゆえに、我々は互いに関りあい理解しあうことができ、またそうする必要があるのです。

 もちろんこういった一連の考え方はひとつの仮説です。例えば技術の進歩によってある種の構文が脳でどのように処理されているかを確かめることはできるようになるかもしれません。しかし筆者がここで主張していることを確かめるために、人を生まれてすぐ人間社会から隔離したり、親を含めた他者との接触を制限して、ことばの習得に必要な条件を特定するといった実験は、倫理的にも到底許されません。もっとも、そういったことをしなくても、十分検証できると考えていますが、このあたりは今後の研究課題です。

 ことばに対する関心がブームを呼び起こすまでに高まることは大いに歓迎すべき事柄です。しかし、そこには危険性が潜んでいることもすでに指摘しました。もうお分かりかと思いますが、ひとつはある種の見方が科学的な検証を経ないまま―つまり無批判に―既成事実として受け入れられてしまうということです。もうひとつは、ことばは本質的に人間の精神と深く関る現象であり、ブームのような流行り廃りがある性格のものとは基本的に相容れず、むしろ普遍的な問題であるということです。

 この記事の中で私はたくさんの問いを発しました。しかしそのほとんどには答えていません。皆さんとゼミで一緒に考えたいからです。ことばの奥深さに触れることは、自己の探究、ひいては人間という存在の探究につながると信じています。読者の皆さんも先人の声に耳を傾け、自分の声に耳を傾けてみてはいかがでしょうか。

推薦図書

大野晋1999『日本語練習帳』岩波新書

金田一春彦1988『日本語 上・下』岩波新書

鈴木孝夫1973『ことばと文化』岩波新書

フェルディナン・ド・ソシュール2016『新訳 一般言語学講義』研究社

ガイ・ドイッチャー2012『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』インターシフト

芳賀綏1979『日本人の表現心理』中公叢書

スティーブン・ピンカー1995『言語を生みだす本能 上・下』NHKブックス

PAGETOP