大学教育において、学生の主体性を育てるために欠かせないものの一つが「問いを持つ力」です。問いは、学びの出発点であり、知的探究のエンジンそのものです。しかし実際の授業現場では、「学生がなかなか質問しない」「問いを立てられない」といった状況が珍しくありません。
なぜ、学生は問いを持たないのでしょうか。そして、どうすれば問いを持つ力を育てることができるのでしょうか。その鍵となるのは、教員の教育的スキルと、学生との信頼関係です。本稿では、学生の問いを引き出すために必要な教育環境と関係性について考えていきます。

なぜ学生は問いを持たないのか

多くの学生は、高校までの教育で「正解を当てること」に慣れています。知識を効率よく暗記し、テストで正答を出すという学びのスタイルが評価されてきた中で、「問いを立てること」自体があまり奨励されてこなかったのが実情です。そのため、大学に入学してすぐに「問いを持ちなさい」と言われても、どう考えてよいかわからず、戸惑ってしまう学生は少なくありません。
このような状況で、単に「何か質問はありますか?」と教員が促しても、学生の反応が乏しいのは自然なことです。学生の問いを引き出すためには、技術的な工夫と、関係性に基づく安心感が必要なのです。

授業中の質問禁止のイラスト

教員の問いかけの技術とファシリテーション能力

学生の問いを育てるには、教員の問いかけの力、すなわちファシリテーション能力が欠かせません。単なる知識の伝達者ではなく、学生の思考を促し、探究の流れを支える進行役としての役割が、大学教員には求められています。
たとえば、「この現象の背景にはどんな要因があると思いますか?」「このデータを他の視点から見ると何が見えてくるでしょうか?」といった具体的な問いかけを授業に組み込むことで、学生は「考えるべき観点」を自然に学ぶことができます。
また、問いに対してただ正解を返すのではなく、「なぜそのように考えたのですか」「他にどんな可能性があるでしょうか」といった掘り下げの応答を返すことも重要です。そうしたやり取りを通して、学生は問いを深める力を体感的に身につけていきます。

教員と学生の関係性が問いを生む

教育の質は、教員の専門性や授業設計だけで決まるものではありません。学生との関係性の質が、学びの深さを大きく左右します。特に、「問いを持つ」という行為は、自己開示や批判への不安を伴う繊細な営みです。学生が安心して問いを立てるためには、教員との間に信頼と尊重に基づく関係性が築かれていることが不可欠です。
学生が「この先生は自分の考えを受け止めてくれる」「この教室では自由に発言してよい」と感じられれば、たとえ不完全な問いであっても、思い切って口に出すことができます。逆に、否定的な態度や一方的な授業では、学生の思考は内に閉じこもってしまい、問いは生まれにくくなります。
そのため、教員は授業内外を通じて、学生一人ひとりと丁寧に向き合い、「共に考える仲間」としての関係を築くことが求められます。関係性の土台があってこそ、ファシリテーションや問いかけの技術も真に活かされるのです。

「問いを共有する学び」の設計

問いを引き出す授業とは、教員が問いを投げかけるだけでなく、学生同士が問いを共有し合う学習環境をつくることでもあります。グループワークやゼミなどでは、学生に自ら問いを立てさせ、それを他の学生と共有・発展させるプロセスを組み込むことで、学びはより相互的・主体的なものになります。
さらに、学生が自分の問いを記録し、可視化する仕組みを導入することも効果的です。たとえば、「今日の授業で気になったこと」「もっと深めたい疑問」を毎回提出してもらい、それに対して教員がコメントを返すようにすると、問いと対話の循環が生まれます。
このような設計によって、問いは一過性のものではなく、思考と成長の軌跡として蓄積されていきます。

教員自身が「問いを持つ存在」であること

最後に強調したいのは、教員自身が問いを持ち続ける存在であるという姿勢です。問いを持ち、探究する姿勢を体現している教員こそが、学生にとって最良の学びのモデルになります。
たとえば、「私自身もこのテーマについてはまだ考え続けているところです」「皆さんの考えから多くの気づきをもらいました」といった言葉は、学生にとって大きな励ましになります。教員が完璧な答えを持つ存在ではなく、「共に問いを探すパートナー」であると伝わることで、学生は安心して自らの問いを育てていけるのです。
学生の問いを引き出すことは、単なるスキルや技法の問題ではありません。それは、教員の在り方と学生との関係性に根ざした教育実践の積み重ねなのです。信頼に基づいた対話的な関係の中でこそ、学生は自ら考え、問い、そして学びを深めていきます。
「問いを持つ学生」を育てること。それは、大学教育の中核にあるべき目標であり、教員自身の教育観を問い直す営みでもあります。