「18トリソミーと診断されました」
その言葉を告げられた瞬間、心の中に広がるのは、戸惑い、不安、恐れ、そして深い悲しみかもしれません。
“普通”という言葉が遠のき、“将来”という時間軸がぼやけ、“育児”という営みが別のかたちに変わっていく――。
それは、まだ出会ったばかりのわが子を抱きしめる時間と並行して訪れる、心の激動です。

ですが、18トリソミーの子とともに生きるということは、決して“絶望の物語”ではありません。
むしろ、日々のなかで見えてくる、深いやさしさ、いのちの意味、そして生きる力――
そこには、たしかに“この子と出会ってよかった”と思える時間があります。

比較ではなく「いのちそのもの」と向き合う

育児は本来、子ども一人ひとりの成長を見守る旅のはずです。
けれど、周囲の子と比べられ、「できないこと」にばかり注目されてしまう18トリソミーの育児では、「この子の存在は社会にとって意味があるのか」と、自問してしまう瞬間があるかもしれません。

でも、仏教にはこういう言葉があります。「空(くう)」――すべてのものには固定的な実体がない。“普通の子”も、“障がいのある子”も、実はどちらもラベルでしかない。
その子の呼吸、まばたき、指の動き、まなざし――ただそのままで、すでに尊い存在なのです。

わが子が見せてくれる、たった一瞬の笑顔。
反応がないように見えても、そっと手を握り返してくれる力。
それらは、「いのち」としての存在を、深く、静かに、私たちに教えてくれます。

なんとかなる――今この瞬間を重ねていく

医療的ケア、通院、入院、急変。
まさに「予測できないこと」が日常であり、不安は尽きません。
しかし、仏教が説く「無常」――すべては変化し続けているという事実に立ち返るとき、今日の不安も、今日の苦しみも、永遠ではないことがわかります。

「なんとかなる」
この言葉は、未来への保証ではなく、“今を生きる力”への信頼です。
その日その日を乗り越える。今日が大丈夫なら、明日もなんとかなる。
そうやって、一日一日を積み重ねていくことでしか、安心感は得られないのかもしれません。

命の長さではなく「どんなふうに生きたか」

18トリソミーの子どもたちは、医学的には「長く生きられない」と言われます。
けれど、生きる意味は命の“長さ”ではなく、“深さ”や“つながり”の中にあります。

仏教では、「縁起」――すべての存在は他と関係しあって成り立っていると説きます。
つまり、子どもがこの世に生まれ、親となった私たちと出会い、誰かとつながるということは、偶然ではなく深い“ご縁”の結果なのです。

この子と過ごす1日、1時間、たとえ5分でも、そこで交わされるまなざしやぬくもりには、世界中の奇跡が詰まっている。
それを実感できるからこそ、「この子と出会えてよかった」と、多くの親が口をそろえて語ります。

苦しみの中に、慈しみが育つ

仏教は人生を「苦(dukkha)」と定義しますが、それは“悲観”ではなく、“誠実なまなざし”です。
避けられない苦しみを正面から受け止めるところから、本当のやさしさが生まれます。

育児のなかで感じる苦しみ。夜中の呼吸の確認。気が抜けない通院。人からの無理解や偏見。
それでも、その苦しみを経験した人だからこそ、他の苦しみに寄り添える力が育ちます。
それが仏教のいう「慈悲(じひ)」です。
慈は「楽を与える心」、悲は「苦を取り除こうとする心」。
あなたがその子を慈しみ、抱きしめ、日々の命を守っているその姿は、まさに現代における“菩薩”のような生き方だと言っても過言ではありません。

死を受け止めるという、いのちの肯定

親として、子どもの死を意識することほどつらいことはありません。
けれど、仏教は「死=終わり」とは考えません。
それは「涅槃(ねはん)」――苦しみを離れ、安らぎの中に帰ることなのです。

たとえ命が短くとも、愛され、祈られ、抱かれてこの世を旅したいのちには、決して空虚さはありません。
むしろ、短いからこそ、より凝縮された“生ききった人生”なのです。
そしてその命と過ごした記憶は、親であるあなたの中で、これからも生き続けます。

「ありがとう」「会えてよかった」
その言葉は、死を超えて通じ合う、いのちの祈りです。

一人じゃない。支えあいながら生きるということ

18トリソミーの育児は、情報の少なさ、支援の乏しさ、孤独感の大きさとたたかうことでもあります。
しかし仏教は、「人は独立して存在できるものではない」と繰り返し説いています。
だからこそ、助けを求めることは、弱さではなく“自然”なこと。

仲間とつながること、医療者と協力すること、支援を受け入れること。
それらはすべて、“縁”の中で共に生きることを意味します。
「ありがとう」「手伝ってもらえますか」と言えることも、立派な実践なのです。

いまここに、生きている

18トリソミーの子どもと過ごす日々は、まさに「瞑想」のような時間です。
“いまここ”に意識をとどめ、評価を手放し、ただ命と向き合う。
それは仏教が大切にする「気づき(サティ)」そのものです。

この子のまなざしに気づき、この子の呼吸を感じ、この子の存在に深くうなずく。
そんなあなたの姿は、すでに“仏教的実践”を日々生きているのだといえるでしょう。

おわりに――この子と今日を生きる

わたしたちは、いつも未来のことを考えてしまいます。
この子は何歳まで生きられるだろうか。
私が死んだあと、この子はどうなるのだろうか。
でも、そんなときこそ、心の奥にそっと問うてみてください。
「今日、この子と一緒にいるこの時間は、どうだった?」と。

今日を生ききったなら、それがすべてです。
明日がどうなるかは、誰にもわかりません。
けれど、今日この瞬間、いのちとともにあったという事実が、あなたの人生を深く照らします。

そして、あなたがこの子を育ててきたという軌跡は、誰かの励ましになり、誰かの支えになり、見えないところで静かに広がっていくでしょう。
この子と今日を生きる。
それが、人生という旅の中で、最も尊い時間なのです。