「もっと自分らしく生きたい」。
この言葉は、自己啓発書やSNSの投稿、カウンセリングの現場などで、たびたび耳にする表現です。自分を押し殺して生きることに限界を感じたとき、人は「本来の自分」を求め始めます。「自分らしさ」は、現代における幸福や生きがいのキーワードの一つと言えるかもしれません。

しかし、この「自分らしく生きたい」という欲求は、常にポジティブな働きをするのでしょうか。とくに、病気や老い、余命を宣告されたような状況において、それがかえって苦しみの原因となる可能性はないのでしょうか。本記事では、この問いについて、仏教思想との関連を交えながら考察していきます。

自分らしさとは何か

まず、「自分らしさ」とは何かを確認しておく必要があります。一般的には、価値観、個性、好み、言動の傾向など、その人ならではの特徴や傾向の集合体を指します。そして、「自分らしく生きる」とは、自分の内側にある本当の声に従って人生の選択を行うことを意味している場合が多いです。

しかし問題となるのは、この「自分らしさ」がときとして理想化され、固定化されてしまうことです。たとえば、「私は他人に頼らない人間だ」「私はいつも明るく前向きでいたい」といった自己イメージが、「そうでなければ私ではない」という思い込みにつながることがあります。このような強い自己イメージへの執着は、柔軟性を失わせ、かえって苦しみを生む原因となりやすいのです。

苦しみに変わるとき

とくに顕著なのは、病気や老い、死に直面したときです。「自分らしく生きたい」という思いは、その状況の中で実現が難しくなればなるほど、「思うように生きられない自分」への否定や無力感を引き起こすことがあります。

たとえば、がん患者が「最後まで自分らしく、笑顔で過ごしたい」と願っていても、身体的な痛みや感情の浮き沈みによってそれが難しくなると、「こんな私は自分らしくない」と感じてしまいます。その結果、「自分らしさ」そのものが達成不可能な理想になり、かえって苦しみを深めてしまうのです。

また、死を目前にして「もっと自分らしく生きていればよかった」と過去を悔やむ気持ちも、「今ここ」に意識を向ける妨げとなります。理想の自己像が未来にも過去にも影を落とし、現在の自分を肯定できなくなってしまうのです。

仏教的視点からの考察

ここで、仏教の教えを参照してみましょう。仏教では、「自分」という存在を実体あるものとは捉えません。とくに『中論』において龍樹(ナーガールジュナ)は、すべての存在は「縁起」によって成り立ち、固定的な本質を持たない「空(くう)」であると説いています。「私らしさ」というものも、それ自体が永続的で不変なものではなく、周囲との関係や状況によって成り立っている、仮の存在にすぎないというわけです。

また、『スッタニパータ』など初期仏典では、「自己への執着(我執)」が苦しみの根本原因であると説かれています。「こうありたい自分」「これが本当の自分」といった強い想いがあると、それが現実と一致しないときに大きな苦しみが生じるのです。

唯識思想においても、「自我」は心の働き(識)の誤認によってつくり出された仮の存在とされます。とくに「マナ識」と呼ばれる心の層が、「恒常的な自分」というイメージを抱くことで、煩悩が生まれるとされています。

こうした仏教の教えを踏まえると、「自分らしさ」への強い執着は、むしろ心を縛り、苦を増やす要因となると考えられます。

「自分らしさ」は不要なのか?

ここまで、「自分らしさ」が苦しみの原因になり得る可能性について述べてきましたが、それは「自分らしさ」という考え自体が悪いということではありません。問題は、それにどのように向き合うかという姿勢にあります。

もし「自分らしさ」を、状況や関係性に応じて変化する一時的な現れとして柔軟に捉えることができれば、それは生き方の指針や心の支えになり得ます。たとえば、病床にあっても「痛みを抱えながらも、人にやさしくできた」と感じられるなら、それもその人の「自分らしさ」として受け止められるでしょう。

仏教が教えているのは、「自己を否定すること」ではなく、「自己という概念への執着を手放すこと」です。「自分らしさ」を否定する必要はありませんが、それにとらわれすぎない姿勢が、苦しみからの自由へとつながるのです。

おわりに

「自分らしく生きたい」という欲求は、現代人にとって自然で切実な願いです。しかし、それが理想化され、執着の対象となったとき、かえって苦しみを生む可能性があります。

仏教の視点から見れば、大切なのは「自分らしさを実現すること」よりも、「自己という観念にとらわれすぎないこと」なのかもしれません。状況に応じて変化し続ける中で、やわらかく、流動的に生きるあり方。そこにこそ、静かで深い自由があるのではないでしょうか。