はじめに:根源的な“問い”の正体

「私は何のために生まれてきたのだろう?」「自分の存在には意味があるのか?」。人生の中でふと湧き上がるこの問いは、多くの人の心に共通する深い渇きです。成功しても、愛されても、ふとした瞬間に立ち上がるこの根源的な問いに、仏教はどう向き合ってきたのでしょうか。

仏教は、人生に“意味”を求める心そのものを、まず静かに見つめます。そもそも「意味を求める」という行為は、苦しみの中から“答え”や“理由”を探そうとする心の働きに他なりません。しかし、仏教の根本教義である「無常」「無我」「縁起」「空」は、そのような“固定された答え”が存在しないことを私たちに教えてくれます。

“私”はどこにもいない──無我と縁起の視点

「無我」とは、固定された不変の「私」という実体は存在しないという真理です。私たちは「私の人生」「私の意味」と言いますが、その主語である「私」すら、実体があるわけではなく、五蘊(色・受・想・行・識)という変化し続ける要素の仮の集まりに過ぎません。では、実体のない「私」に、“本来の意味”などあるのでしょうか?

さらに「縁起」の教えは、すべての存在が互いに関係しあって成り立っていることを示します。私という存在も、無数の“ご縁”の中で、一時的に現れている現象です。そうであるならば、「私の意味」を「私」の内側だけで見つけようとすること自体が、的外れなのかもしれません。

朝霧の中で複雑に絡み合う木の根

すべては無数の“ご縁”の中で、一時的に現れている現象にすぎない。

意味を手放すことで、豊かさに気づく

仏教は、意味を“発見”するのではなく、“手放す”ことをすすめます。意味を探すことに疲れたとき、意味づけを一度やめて「ただ在る」ということに気づいていく。すると、意味という枠組みを超えた、深い静けさと安らぎが訪れます。

しかしこれは、人生が空虚であるとか、無価値だと言っているわけではありません。むしろ逆です。すべてが縁起によって成り立ち、常に変化しつづけるこの命は、意味という言葉の枠には到底収まらないほどの、広がりと豊かさを持っています。意味にとらわれないことで、私たちは目の前の一瞬一瞬に、まっすぐ出会うことができるようになるのです。

釈尊が説いたのは“意味”ではなかった

たとえば、釈尊(お釈迦様)が菩提樹の下で悟ったのは、「生きる意味」ではなく、「苦しみの仕組み(四聖諦)」でした。そして、その苦しみから自由になる道(八正道)を説いたのです。仏教は、「人生の意味はこれだ」と一つの答えを与える宗教ではありません。むしろ、「意味」という観念によって縛られる苦しみから、私たちを解放しようとする智慧なのです。

私たちはつい、「もっと意味のある人生を生きなくては」と自分を追い立て、評価します。しかし、誰かの笑顔のためにご飯をつくるとき、静かに一輪の花を眺めるとき、疲れて眠りにつくその瞬間……そこには明確な意味はないかもしれません。でも、意味を超えた“命の豊かさ”が、確かにそこに息づいています。

縁側から望む静かな日本庭園と椿の花に乗る雨の雫

意味を超えた“命の豊かさ”は、日常の何気ない瞬間に息づいている。

おわりに:“意味の彼方”で生きはじめる

「生まれてきた意味はあるのか?」という問いに、仏教はこう答えているように思います。
「意味を探すのを、やめてごらん。意味の向こう側に、ほんとうのいのちがあるよ」

意味を越えたところにこそ、生きることの真実がある。そのことに気づいたとき、私たちは“意味の彼方”で、初めて本当に生きはじめるのかもしれません。

夜明け前の湖畔で波紋を見つめる人物の後ろ姿

意味を探すことをやめたとき、“意味の彼方”で、本当のいのちが始まる。